きっと世界に マタイによる福音書 5章9節(きっと世界に)(聖書の話41)

平和を実現する人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。

(マタイによる福音書 5章9節)

今回の聖句は山上の説教と言われる、イエス様の教えをぎゅっとまとめたマタイによる福音書の冒頭部分の一節だ。 キリスト教独特の言い回しや言葉が、少し難しかったりする。 平和を実現するとは何か。天の国とはどこか。 意味を探るために、少し乱暴ではあるけれど、平和の反対を戦争、幸いの反対を不幸、天の国の反対をこの世として、今回の聖句を裏返してみた。

戦争を実現する人々は、不幸である、
この世はその人たちのものである。

悲しいことに、ある種のリアルが、この言葉から感じられるように思う。戦争を実現する。それは実際に戦争を行うということだ。 この世界を支配している人たちによって戦争が実現してしまう、その現実を私たちは以前より、最近、少し強く感じているかもしれない。 この世で成功を収めていくために自分たちはどんな人生を歩んでいくか。成功のためにはお金が必要であり、経済的な豊かさを大切にして現実を見れば、時と場合によっては戦争も仕方がない。あるいは、制裁を加えるべき悪意に満ちた国家へは、武力行使も仕方がない。自分たちの身を守るためには武器を取るべきだ。戦争を実現してしまう人たちの理屈に自分も飲み込まれてしまいそうになる。

その一方で、単純に人を殺したくない、戦争をするのは間違っている、と思っているのも本当だ。

イエス様が生涯を投じて伝えようとしたことは、とてもシンプルなことだった。それは愛するという行為。神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛することが、私たちが幸せになり天の国、神の国につながって行く方法だと教えた。 神様の支配を信じて、復讐の連鎖を止め、敵を愛し、迫害者のために祈ること。それはとても難しいことのように思える。それでも、私たちが少しずつ努力するときに、だんだんと世界が変わって行くかもしれないのだ。この世的には損をすることも度々起こるかもしれない。でも大丈夫だとイエス様はこの聖句で述べている。天の国では損をしていない、そして、何よりもあなたは幸せになる、と読み取れる。

さて、機会があったので、先日、友人たちに、ここまでの話を聞いてもらい意見をもらった。いくつかの質問と指摘があった。 その一つは愛することに自分の人生の軸足を置くときに経済的成功は犠牲になるのではないかということ。お金のことを一番に考えることは出来なくなる、そのことが誤魔化されて言及されていないのではないかという指摘。もう一つは天の国は死後に感じるものなのかという質問。そして、「幸い」という聖句の言葉は「幸せを感じる」ということと同じではないのではないかという指摘。

どれも鋭い指摘と質問だ。

僕も、イエス様の勧める道では、この世的な成功、経済的成功は難しいと思う。と同時に、本当に幸いな人生を歩めるなら、それは幸せであり、人生にとって成功であり、その幸せは生きている中で感じる天の国なのだとも思う。

憎むより愛すること。裁くより赦すこと。争うより平和であること。その一つ一つはこの世的には損で、バカバカしく思えたりする時があるかもしれない。でも、迷ったり失敗しながらであっても私たち一人一人がその道を選んで行くときに、きっと世界が、この現実の世界が変わって行くのだ。そのことを信じる。そんな人生を素敵だと思う。そんな思いで「きっと世界に」という曲を書いた。最後に、その詞を紹介する。

「きっと世界に」

誰かの涙が どこかで幸せを生み
僕らの涙が どこかで安らぎを生み
あなたの涙が どこかで争いを止めるならいいな

愛を求め 星を探し 傷つき 傷つけ 月を見上げた
繋がってる 全て 心の震えは 小さな波を きっと世界に

誰かの笑顔が どこかで喜びを生み
僕らの笑顔が どこかで平和を生み
あなたの笑顔が どこかで戦争を止めるならいいな

愛を見つけた 雨は上がる 光がこぼれて 雲は流れた
繋がってる 全て 呼び合う想いは 大きな波を きっと世界に
愛を見つけた 雨は上がる 光がこぼれて 雲は流れた
繋がってる 全て 呼び合う想いは 大きな波を きっと世界に

愛のとき マタイによる福音書 18章2節~3節(愛のとき)(聖書の話42)

そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない。」

(マタイによる福音書 18章2節~3節)

今回の聖句は弟子たちがイエス様に天の国で一番偉いのは誰かという質問をした時にイエス様が答えた言葉の一部だ。 「子供のようなる」とは、どのようことを意味するのだろうか。
この箇所で登場する子供は、高校生や中学生でも「子供って可愛いいな」と感じるような幼子を指しているようだ。イエス様は、そんな幼子のような心でないと天国に入れないと言われる。それはどのような心を指すのだろうか。

僕は、毎年、秋に自分の音楽生活の中では一番大きなライブイベントを行ってる。京都の円山公園にある音楽堂で「ハラダイスライブ」というフェスみたいな野外ライブを行うのだ。出演者は、フェスっぽいのに僕だけ。正確には僕と僕を支えるミュージシャンだけだ。そのハラダイスに向けて、毎年テーマを決めるのだが、今年は「LOVES YOU」というテーマでステージを作っていくことに決めた。そして、そのことを考えている時期に、高校での礼拝の話をいただいた。
せっかくだから、曲を書いてみようと思った。高校の音楽の先生を誘って、愛するということについて、何か歌えることはないかと一緒に考えた。
先生に「愛するというテーマで、日常に感じていおられることはありますか?」という質問をしたら、お子さんとの関係の話をしてくださった。僕には子供がいないのだが、先生には幼子がおられる。「うーん、やっぱり『愛する』というテーマなら子供のことを思いますね。」と先生は言う。自分がいなければ、自分が守らなければ、生きてはいけない幼子を愛する気持ち。「本当に励まされるんです、子供に」と言う彼女に、僕は少し不思議な気持ちになった。自分が時間を割き、世話をして育てていく子供に励まされる。愛していることで逆に元気をもらっている。愛すると言う行為は自分からエネルギーを出しているようで、逆にたくさんの力をもらっている行為だと気付かされる。

幼子は何をしたのだろう。わがままに泣いたり、世話をかける。ただ愛されただけなのだ。

イエス様はその幼子のどこを天の国に入れる心だと言っているのだろう。今回、先生の話を聞いて、全部を委ねて愛される心のことをイエス様は言っておられのかもしれないと思いった。全部を委ねて愛されてくれる存在に愛する側は大きな力を貰えるのだ。それは同時に幼子に愛されていること、必要とされていることを実感する瞬間でもあるのかもしれない。

「そんな綺麗な愛情の交換なんて理想でしかないよ」

大人になってからの恋愛なんかを考えるとそう言いたくなる。けれど、誰しもかつては幼子だった。そして、気がつかないうちに全部を委ねて愛されていたのだろう。あるいは、いつか、お父さんやお母さんになって、自分の子供を愛する喜びに出会うかもしれない。そんなことを思った。

音楽の先生にアドバイスをもらいながら「愛のとき」と言う曲を書きあげた。 その曲の歌詞を紹介したいと思う。

「愛のとき」

まっすぐな笑顔 小さな手を握る
僕を見つめる眼差し

君を大切だと思ったり 君がいてくれて嬉しかったこと
噛み締めたありがとうはきっと愛だ

穏やかな寝顔 一日の終わり
僕を支える温もり

君を大切だと思ったり 君がいてくれて嬉しかったこと
噛み締めたありがとうはきっと愛だ

目を閉じて明日を思うよ 優しく抱きしめて
その愛で明日を生きるよ 与えられた勇気で

君を大切だと思ったり 君がいてくれて嬉しかったこと
噛み締めたありがとうはきっと愛だ

ひと時の混乱 ルカによる福音書 12章49節(聖書の話43)

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

(ルカによる福音書 12:49)

 

今日の聖句はイエス様の言葉だが、少し意外に感じる人も多いのかもしれない。「地上に火を投じる」とは随分恐ろしい言葉だ。争いや分裂、ひどい場合には戦争をイメージしてしまう。

イエス様の意外性に出会った気がして選んでみた。イエス様は争いを止め、戦争を否定する人ではないのか?と思いながら、この聖句に出会い、この聖句の意味やメッセージをしっかり学んでみようと考えたのだ。

まずは、イエス様の生涯を少し振り返ってみようと思う。

今から2000年と少し前、ユダヤの民の中にイエス様は生まれる。当時のユダヤの民は、その民族の歴史の中で語られていた「救世主による王国が築かれること」を待ち望んでいた。エルサレムから御言葉が出るとイザヤ書の2章にあるように、救世主はエルサレムから登場して、自分たちを政治的にも経済的にも救ってくれると期待し、信じていた。
その時代背景の中で、イエス様は、救世主としての期待を集めることになる。イエス様自身も、人々を救うことをその生涯のテーマにされていた。救世主としての人生を進むイエス様が、その行いによって注目を集め、当時の人々に期待を持って受け入れられたことは想像に易い。時の権力者が恐れるほどに民衆はイエス様の言葉に心を動かされたのだ。

当時、人々を教え導く役割を担っていた律法学者たちは、神の裁きの恐怖を煽り、律法を守ることを一番大切だと教えていた。そんな律法学者たちの考えに真っ向から異論を唱え、律法をただ守ることが大切なのではなく、「愛する」という行為こそが大切であり、その行為によって私たちは神に喜ばれる存在となり、救われるのだと教えたイエス様。当時の人々はその教えに新しさと希望を感じたのだと思う。
救いを求めていた人たちにとって、イエス様が語られる言葉は新鮮で、今まで想像もしなかった考え方には刺激と発見がたくさんあったのだと思う。聖書を読んでいると、一時のイエス様は、大人気のロックスターのようだ。いく先々で民衆に囲まれ、見つけられると群衆が押し寄せ、すぐに囲まれてしまうと言った感じだ。
しかし、皆さんもご存知のように、イエス様は十字架に磔(はりつけ)にされて殺されてしまう。人々がイエス様を受け入れ、熱狂する時間はそんなに長くはなかった。

民衆の前で、自分たちの教えを否定された律法学者たちや、人々の心を動かすイエス様に恐怖を感じた権力者たちによって、次第にイエス様に対するネガティブキャンペーンがはられ、結局はでっち上げの裁判で、イエス様は十字架につけられてしまう。

イエス様に一時はついて行こうとしたけれど、イエス様は自分たちを経済的に救ってくれる訳ではないと気付いた人たちの失望や、政治的な成功を期待してついていったのに、どうもそういうことではないと感じた人たちの失望も、イエス様を十字架につけて殺してしまう考えを後押しすることになる。
「なんだ、生活が楽になる訳ではないのか」とか、「あれ?今度の選挙(当時の政治家の選出は選挙ではないと思うけれど)でも立候補しないのか。王様になる人ではないのか」と言った感じかもしれない。

私たちは、この世的な成功に目を奪われがちだ。そして、自分の生活を、特に経済的に豊かにしてくれるものに簡単になびいてしまう。景気さえいいなら、少しくらい不正があってもまあいいじゃないか、と言った具合だ。
今の日本を見渡しても、そのことを感じることは多いし、自分の生き方の中にも常に、その声は聞こえてくる。「成功したいなら」「勝ち組になりたいなら」「お金が必要なら」と囁かれることが度々だ。
まあ、ミュージシャンとして僕があんまり売れてないのは、そういう囁きを強い意志で排除してきたからではなく、単に、才能とか努力がまだ足りていないのだけれど、それでも、そんな誘惑を感じない訳ではない。そして、その誘惑に身をまかせると、往往にして虚しい結末が待っていることも少し知っている。

しかし、イエス様は、そんなこの世的な成功にはまったく興味を示されない。多くの群衆が期待していても、経済的成功や政治的権力を手にすることに目を向けられない。救世主とはこの世的な成功の中に存在するものではない、とはっきり語られる。最初は、「謙遜しておられるだけだろう」とか「いや、でも時代がイエス様をほっておかない、このままでは終わらないだろう」なんて思っていた周囲の人たちも、だんだん「これは本当に期待はずれかも」と思うようになっていったのかもしれない。今日の聖書箇所は、ちょうど、そのイエス様の「本当にしようとされていること」が語られ始める時期にあると言っていい。人々の期待と、イエス様が語っておられることとのズレが明確になっていく時期と言ったところだろうか。いや、イエス様の側も、この世がどのような状態かが分かり、自分のこの世での役割について、どんどんイメージが明確になっていた頃なのかもしれない。

私たちは、イエス様の生きた時代から2000年以上の時間がどのように流れたかを既に知っている。しかし、この時、イエス様はまだその未来を知らない訳だ。

聖書を学んでいくと、イエス様が、自分のこの世での生涯がどのような意味で与えられたかを見極め、覚悟を決めて行かれるシーンに時々出会う。人間として、死の苦しみも痛みも感じながら十字架で殺されることを受け入れる覚悟は並大抵のものではなかっただろう。

旧約聖書の中に出てくる預言者の言葉を学び、自分が救世主としてこの世に生まれたことを予感しながら、人々を救うために何をしなければならないかを常に考えておられたように思う。
おそらく、自分は生贄として殺されることになるだろうと気付いた時、ものすごく辛かったり、苦しかったり、嫌だったりしたのかもしれないなと思うのだ。

十字架に磔にされた後、イエス様は復活をして、多くの弟子たちの前に現れ、語られる。復活の後のイエス様は、どこか穏やかで自由だ。そして、優しい感じがする。
しかし、その穏やかな時間はまだ訪れていない。イエス様自身も必死で生きておられる真っ只中で今日の聖句は語られているのだ。

ユダヤ教の考え方の中にある「来臨」、つまり救世主がやってきて、この世を治めてくれるという考え方の中で民衆の期待を集めたイエス様は、その期待に答えず、十字架に死に、そして復活していつか再び来ることを約束して天に上げられる。
インターネットを調べていたら、僕がかつて英語を教えてもらった市川喜一先生のページにたどり着いた。
市川先生曰く「われわれの信仰は終末的である。その内容を具体的に言えば、われわれはキリストの再臨を信じ待ち望んでいる。われわれの罪のために十字架の上に死なれたキリストは、三日目に復活して天に上げられ、やがて栄光の中に再び来られると、われわれは新約聖書の証人たちと共に信じている。」
再臨信仰というのだろうか。

ルカによる福音書の今日の箇所までを読んでいると、その再臨の時の準備をしなさいという話がたくさん出てくることに気づく。どこかへ出かけていた主人が帰ってくるまでに何をしておかなければならないか、といった例え話が見受けられる。
再臨に備えて「目を覚まし・ともし火をともし・腰に帯を締め・良き管理人となれ」という感じだ。
しかし、今日の聖句は、再臨ではなく初臨、今回のイエス様のこの世への到来において、イエス様が何をしにきたかを語っておられる。この世の現状の中で、イエス様のメッセージを民衆が正しく受け取るなら、どのような状態が待っているかを悟り、ご自分がこの世に来られた意味を語っておられるのだ。

今日の聖句をもう一度読んでみよう。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

ある注解書に、「主の願いは、再臨の日がもう既に来ていることでした。それが、『火が既に燃えていたらと…』です」とあった。そうか、と思った。イエス様も、その時代に生きて、その時代の状況を初めて知る訳だ。だんだんと人々が何を望み、何に心を奪われているかを知る訳なのだ。
イエス様が気がついていた大切なことを、イエス様が語られる言葉を、人々が受け入れられないことをまざまざと見せつけられる中で、この言葉は語られているのだと思う。「私の語ることを、この時代の中で受け入れるなら、ひと時の混乱は免れない」と、イエス様は感じられたのではないかと思うのだ。
では、イエス様は何を語られ、何を私たちに伝えられたのだろうか。
イエス様が語られたことは、最初からずっと「一生懸命愛しなさい」ということだけだったのだなと思う。愛せない自分を悔い改めなさい。私が、あなた達の足りない部分を補って、愛せるように支えるから頑張りなさい。そのことだけを伝え、ただただ、当時の弱者達のところへ赴いて、励まし、愛された生涯だったように思う。
そして、それはとても厳しい人生なのだと、イエス様は度々説明をしている。「愛する」という行為を命がけで行うときに、そこには争いが生まれてしまうことがあるのだと。そのひと時の混乱の先にしか、本当に愛が実現した世界はないのだと。

火は争いと共に浄化を意味する言葉だと註解書にあった。利権にまみれて、正しさなど失われてしまった世界で、正しくあることを主張すれば、当然揉め事が起こる。事なかれ主義で見えないふりをしている方が、うまくいくことの方がほとんどだ。
イエス様はそのことに妥協をしない。人々が見捨ててしまった弱者を愛し、本当に反省しているなら、一見、律法を覆してでも、その人を赦し、守ろうとする。
少しでも火が燃えていたなら、イエス様の到来を民衆は受け入れることができただろう。しかし、火をつけるところから始めなければならないところまで、世界は荒み、人々は罪に身を任せていた。世界を救うためには、正しさの火をともさなければならない。それは、この時代にとっては揉め事の種となる。それでも、その役割を自分は全うするのだ。その決意が、この聖句の中に垣間見れる。

争いの結果として最悪なことは、死者が出てしまうことだ。イエス様は、全ての人の身代わりとなってその最悪の死者になってしまう。
愛することが一番大切だ。けれど、律法に定められた罪を償うことも決して軽んじてはならない。たくさんの罪人の罪を「赦す」と宣言されるイエス様は、その罪を担って自分が十字架につくことを覚悟されているのだ。その十字架への人生の決意の中で、この言葉は語られている。「最悪の結果だけは、私がなんとかする。しかし、それぞれに、それぞれの人生を戦って欲しい。愛のもとに戦って欲しい。」そういう思いが今日の聖句には感じ取れる。

今日、私たちは、この聖句を聞いた。
本当はいうべき言葉を飲み込んでしまってはいないだろうか。誰かにムッとされることを恐れて、弱いものが犠牲になることをそのままにしてはいないだろうか。利害を求めて正しくあることを諦めてはいないだろうか。それぞれに、自分に問いかけてみて欲しい。
怖くて身動きが取れないのは当たり前だ。処世術なら決して進めてはこない選択を迫られている気分になるかもしれない。
でも、神様がいてくださるなら、その争いはひと時の混乱であり、その先には本当の平和が待っているはずだ。そのことを信じて勇気を振り絞れる人でありたいと思った。

実は、一旦、この説教はここで終わりだったのだが、書き上げた後、多くの友人たちにこの話を聞いてもらい、特にクリスチャンではない人たちの意見を聞く機会に恵まれた。そこから感じたり発見したことを少し付け加えようと思う。

感想として上がった最初の質問は「ひと時の混乱」の先にある「本当の平和」とは何ですか?というものだった。そして、「言わなければならないこと」とはどんなことですか?という質問。
全ての言わなければならないことは、それぞれの利害から出ているように思う、とある友人が言う。「良心のようなものが言わせる、利害を超えたものがあるのでは?」と聞くと、「その良心も時代や場所あるいは国によって違う価値観になってはいないか」「突き詰めたところでは、どこか利害によってその感情は生まれているのではないか」という訳だ。

相対的な事柄しかこの世界にはないのか、それとも絶対的なものがあるのか、という問いは非常に大切だと思う。
神様という絶対的な存在があり、その神様が示す道は絶対的だ、という価値観の中で、今日の説教は語られている。そこには正しい答えが存在し、自分にとって不利益になることでも、その正しさを求めることに意味があるという考え方が成立する。
しかし、全てが相対的だとすると、「争いを招いてでも言うべきこと」などないと言う考えになってしまうのもよくわかる。自分だけが我慢すれば、揉め事にならない、と言う訳だ。

「どうして絶対的なものがあると言えるのですか?」
何度も繰り返されて来た問いである。絶対的なものの絶対性を論理的に証明することはできない。神様がいると証明することはできないのだ。そこには信仰があるのみだ。信じること、聖書に学ぶこと、教会に来ること、そして、信じた先で行動を起こしてみることによって、つまり、信仰生活を送ることで、自分の信じた事柄が真実であることを確信するようになる。でもそれは論理的証明ではない。実践と経験による主観的告白だ。

神様に聞き従う訓練を繰り返す信仰生活によって、ひと時の混乱の先に訪れる奇跡のような穏やかな日々を信じられるようになるのだと思うのだ。
それは、イエス様が十字架の後に復活して、いつか再臨してくださると言う未来をも信じさせてくれる信仰でもある。

もう一つ、大きな質問があった。
「言うべきこと」「するべきこと」とは具体的には一体何ですか?その正しさは何よって判断するのですか?この話を聞いた人は、その後、どう動けばいいのですか?と言うもの。

それぞれに具体的にどんなイメージがあるか、どんな体験があるか、などを聞いてみた。色々と話し合ったのだが、結果として「そこに愛があるか」が一つのバロメーターかもしれないと言うことになった。随分とふわっとしたバロメーターだが、クリスチャンではない友人たちも「愛があるか」と言う言葉には比較的イメージが湧くとのこと。これもまた人それぞれで、なかなか難しい。

それでも、その決断が愛による決断かどうかを、いつも問いかけてみることでわかることもあるように思う。ひと時の混乱を招くとしても、相手に対する愛からその混乱が起こっているなら、その未来は明るいのではないかと思うのだ。
もちろん、それもかなり勇気のいることだ。こうする方が愛があるとわかっていてもなかなか動けない。愛したくても愛せないのが私たちだ。その弱さを補うために、イエス様この世に来られた。愛せない私たちを赦し応援してくれる。

「神様、守ってください。神様、支えてください」そう祈ることは全員に与えられている権利だ。信じていなくても、心を沈めて祈ってみることだ。必ず何かが変わってくる。私たちの心の中に、弱々しくとも、火が燃えていることをイエス様は願っておられる。
その願いに応えたいものだ。

ボートを漕ぐように 詩篇 32章8節(聖書の話44)

わたしはあなたを目覚めさせ
行くべき道を教えよう。
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。

(詩篇32:8)

皆さんも「人生を進むとはボートを漕ぐようなものだ」という話を聞いたことがあるかもしれない。私達は未来へ向かい背中越しに進んでいく。過去が目の前にあり、未来は後ろにある。そう考えると、「三日前」と過去のことを表現し、「三日後」と未来のことを表現することにも納得がいく。

僕は、この例えを、ひどく気に入った。もともと、この話を僕に聞かせてくれたのは僕がまだ20代のころに担当した教育実習生だった。彼が、この例えを使った授業の教案を持ってきたのだ。しかし、その教案の結論はひどく退屈なものだった。「僕らは未来を見ながら進むことができない、だから不安になるのだ。だからこそ、船頭さんとして、イエス様にボートに一緒に乗ってもらいましょう。」
せっかくの興味深い例えが台無しだと僕は思った。ほとんどキリスト教に興味がない高校生に対して、なんて魅力のない結論なのだろうと。

僕がなぜ、この人生への例えを気に入ったのか。それは、この例えに人生の真実があるように思えたからだ。確かに未来は見えない。見えているのは、自分が辿ってきた今までの人生だ。
教案は教育実習生のものなので、「僕の考えとしてはどこが面白くないか」を伝え、彼なりにアレンジを加えて実習は無事に終わったように記憶している。実習は過ぎていったが、この例えがあまりに面白かったので、その後、僕は友人たちと、この例えをもとに話をすることが度々あった。僕以外はクリスチャンではない友人たち。大学を出て数年。社会の中でそれぞれにもがいていた僕らにとって、この例えから各々が感じる人生への思いはなかなか面白いものだった。
ある者は、「僕は自分のボートとオールが描く水面に残る進んだ後の美しさにこだわりたい」つまりは人生の歩み方の美しさに興味があると言う。また、別の者は「僕はスピードが大事だ」と言う。「いやいや、目的地の設定だろう」という者も。そんな中、「私は、あっという間に激流の上に乗っけられてここまで来たから、あまり自分でボートを漕がなかった」という友達もいた。若くしてメジャーデビューして、それなりに世間の脚光を浴びたボーカリスト。彼女はどれくらいのスピードで自分のボートが進んでいれば、人々はそのことに注目してくれるかをよく知っていたけれど、自分でボートを漕ぐ喜びにはしばらく出会っていないようだった。
僕は、進むべき方向へ一生懸命ボートを漕ぐことが人生を豊かにするのではないかという仮説を立てて見た。これは、賛否両論。極めてクリスチャン的だという批判も。「真実ありき、正解ありき」で考える時、ゴールを探す面白さ、結論が分からない面白さが奪われてしまうという感じだ。僕らは若く、まだまだ人生を模索していて、同時に自信に満ちていた。結果的に同じところをぐるぐる回っているだけだとしても、そんなに虚しいとは思わないという意見も出た。行きたいときに行きたいところへ行く、その自由が欲しいという友達も。
結果、僕らが、全員一致で大切だと考えたことは、「まずはボート漕ぐ楽しさを知ること」だった。そして、これこそが、若き日にまずは獲得して欲しい感覚だということになった。話の発端が高校生への授業教案だったので、どんなメッセージが高校生へ一番必要かを僕らなりに考えていたのだろう。そこから先の生き方へのこだわりが本当にそれぞれに違うということも僕らなりに感じた時期でもあった。

学校というのは、失敗したり危ない目にあっても大丈夫なように、学生を一生懸命守ってくれる。その環境の中で、見えない未来に向かって、全力で漕いでみる。失敗もするし、色々痛い目もみるだろう。でも、一生懸命漕いだ時に得られる喜びにも出会えると思う。その成功体験を原動力に、実際の社会に出て、自分の責任の中で、しんどくても喜びをもってボートを漕ぐことができるようになるのだと思う。
不安を感じるのはそれからで十分だ。教育実習生が言ったように、イエス様に一緒に乗ってもらうことでしか、乗り越えられない大変な未来もやってくるかもしれない。でも、その前に、まずは、自分でボートを漕ぐ喜びに出会って欲しいと思う。

今日の聖句をもう一度読んで見よう。
「わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。」
確かに、神様という優秀な船頭さんが、いつでも、あなたを見守ってくれていることを約束してくれている。けれど、同時に、自分の足で歩くこと、自分の意思で進むことを前提として、それを見守り助けるという約束であるようにも思える。

あれから随分と時間が経った。これを読んでくれる人がどのような状況に置かれているかを僕は知らない。一つ言えることは、今、その助けが必要な人がいるなら、「神様助けてください、進む道を示して下さい」と勇気を出して祈ってみることだ。行き先が分からなくなり、進むことが怖くなった時、神様にすがれば、必ず助けてくれる。聖書はそのことを約束している。だから大丈夫。

本当はいつだって、自分の精一杯の力で、まずは自分のボートを漕ぐことが大切なのではないかと思う。スピードが遅くても、漕ぎ方が下手でもかまわない。神様にすがるのは「代わりに漕いでもらうため」ではない。自分のボートを自分の力で進める力をもらうためなのだと思う。

悪魔の誘惑  マタイによる福音書 4章1節(聖書の話45)

さて、イエスは悪魔の誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

(マタイによる福音書 4章1節)

今日の聖句はマタイによる福音書の4章だ。イエス様がその短い生涯の最後の数年間、人々の関心を集めて、たくさんの話をされることになる日々の直前の物語。当時、世の人々が待ち望んだ救世主かもしれないと注目していた洗礼者ヨハネによって、洗礼を受けられたイエス様は、伝道を始める前に、悪魔の誘惑と戦う荒れ野での40日間を過ごされる。私たちがよく礼拝などで話を聞くイエス様は、弟子がいて、神の独り子として、迷いのない姿で描かれている。今日の個所は、そんなイエス様の人となりが完成する最後の仕上げの時間という感じだろうか。

少し、聖書を読んでみよう。イメージをしながら読み進めてもらいたいと思う。

4章1節~4節
最初の誘惑は「石がパンになるように命じたらどうだ」というものだ。イエス様の空腹に付け込んだ誘惑と言える。しかし、ただそれだけの誘惑ではない。イエス様が苦行ともいえる荒れ野での40日の断食を行ったのは、人々を救うためだった。イエス様は自分が世の中を救う役割を神様から与えられているかもしれないことと向き合っていたと言えるだろう。どうすれば、貧しさの中で飢え苦しむ人々を救うことができるか。そこに巧みな誘惑が聞こえてくる。「石をパンに変えればいいではないか!」。この誘惑は、日々、私たちを襲う。政治家なんかになればなおさらだろう。例えば原子力発電も、僕には石をパンに変えようとしている行為に映る。クリーンなエネルギーとして、人々を救うよきものとして、登場してきたのだ。でも、それはパンではなく石だった。自分たちではコントロールできない危険なものだった。善意が「石をパンに変える」という誘惑にとりこまれてしまう。本当に悪魔の誘惑は巧みだ。

続きを読んでみよう。
5節~7節
「二つ目の誘惑は神様に守られていることを確かめるために神様を試してみてはどうか」という誘惑だ。この誘惑に関しては、その誘惑の方法に興味をそそられる。ダブルカギカッコで示されている言葉は、実は旧約聖書の中にある、神の言葉だ。そうなのだ、イエス様はすべての誘惑に聖書のことばで打ち勝っていくのだが、ここで、悪魔も聖書の言葉を引用してくるのだ。これもまた日常的な誘惑の方法だ。「~したらあかんにゃで」という正しい意見に「え?先生してもいいっていってはったで」というさりげない権威の利用。そこには巧みなすり替えが起こっているのだが、ついついその誘惑に乗ってしまうことがしばしばある。

最後の誘惑を見てみよう。
8節~11節
「私を拝めばすべてを与える」というシンプルな誘惑だ。同じ内容の記事がルカによる福音書の4章にもあるのだが、そこでの悪魔のセリフは秀逸だ。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることが出来るからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
実際に悪魔がこの世を支配しているとも言える。ほとんど同じ誘惑で、芸能界やハリウッドでのセクハラ問題などは行われてきたのだろう。けれど、やっぱり悪魔の支配は見せかけであり、そこには本当の幸せや成功はないように思う。

3つの誘惑をイエス様は聖書の言葉だけで退ける。イエス様が世界を救いたいという自分の思いを自分の考えだけで行おうとしたら、悪魔の誘惑にはうち勝てなかったかもしれない。誘惑を打ち砕く正しい答えは言い訳がなく、シンプルなものだ。ただ、神様を見つめるという一本道を歩いていけばいいだけなのだとイエス様の答えは教えてくる。

私たちにも、日々、悪魔の誘惑が襲ってくる。善意につけこみ、権威を振りかざし、さもこちらの意図を汲んでいるかのようなふりで近づいてくる。キリスト教を信仰していない、神様を信じていない人がほとんどかもしれないけれど、例えば「良心に従う」という表現なら悪魔との戦い方が見えてくるかもしれない。落ち着いて考えれば、打ち勝つべき答えはシンプルですでに自分の中にある、分かっていることばかりなのかもしれない。
悪魔は私たちの日常に存在する。そう思う。その誘惑に打ち勝つ、謙虚さや良心を磨く努力をしていきたいものだ。

さよならエデン  創世記 3章23節(さよならエデン)(聖書の話46)

主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、
彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。

創世記3:23

旧約聖書の一番最初は天地創造の物語だ。この世界が生まれて、神様が私たち人間をお造りになる物語。今回の聖句は、最初の人間、アダムとイブが神様との約束を破って豊かで何不自由ないエデンの園を追われることで、人間の歴史が始まるシーンだ。

神のように善悪を知る木の果実を食べてしまったアダムとイブは、産みの苦しみ、労働の苦しみ、そして死を与えられる。
もし、アダムとイブが蛇の誘惑に打ち勝ち、神様との約束を守っていたら、私たちは今もエデンの園で暮らしていたかもしれない。けれど、人間はエデンの園を追われてしまった。生きることに苦しみが伴う世界へと追い出されてしまった。私たちが今生きているこの世界だ。私たちは、エデンの園に帰ることはもうできないだろう。

神話として、天地創造の物語を読むとき、そこには、聖書の人間観が読み取れる。神様のように善悪を知りたがる人間の傲慢でエゴイスティックな罪性が描かれている。繰り返し繰り返し、人間は神様になろうとして果実を求め、何度もエデンを追われて来たようにも思う。
例えば、原子力を手にしたり、子供を生み分ける技術をものにしようとしたりする。自分たちの手の中に自分たちを滅ぼしてしまうかもしれない力を求めてしまうのだ。
まだ発展途上の科学技術の不完全さを頭ごなしに否定するのはもちろん間違いだろう。たとえば人間に原子力を完全に「アンダーコントロール」できる時がこの先に来るのかもしれない。けれど、今現在の状況の中に、「神のように物事を操れる人間」としての欲求や傲慢をどうしても感じてしまうのだ。
人間は神様にはなれない。全てを知ることはできない。分を知り、謙虚に生きて行くことが要求されているように感じる。

それでも、僕は、不自由で、苦しみのあるこの世界で生きることを、素敵なことだなと思っている。この世界に生まれてよかったなと思うのだ。
神様は、アダムとイブが約束を破ったとき、二人を裁いて殺すこともできただろう。神様との約束を必ず守る新しい人間を作ることも。けれど、そうではなく、二人に、私たち人間に、エデンを出て生きて行くことをお与えになった。そこには親のような愛があるように思えるのだ。エデンの園がどんなところか、僕の想像力でははっきりとはわからない。本当はこの世界とは比べものにならないくらい幸せな場所なのかもしれない。ただ、なんとなく退屈で魅力がない世界のようにも思えるのだ。それは、この世界しか僕が知らないからだ。そして、それでいいと思うのだ。全てはわからなくても、幸せを感じ、日々に満足することは与えれれているように思うのだ。僕にわかっていることは、この世界を生きていかなければならないということ。そして、不確かだけれど、時々は神様の愛を感じることが出来るということくらいだ。
「さよならエデン」という曲を書いた。最後にその曲の歌詞を紹介します。

「さよならエデン」
迷い逃げ込んだエデンの園 傷つかない物語
時間を止めて目を閉じれば 涙は遠ざかるけれど
さよならエデン
さよならエデン

退屈な永遠の都 魅惑の甘い物語
時間を破いて目を覚せば 悲しみも喜こびも流れ込む
さよならエデン
さよならエデン 夢に委ねて すべてを失うくらいなら
さよならエデン 出てゆくよ 夢追いかけて もがくこと選ぶよ
この世界で この世界で

暑い太陽に 冷たい風に 人生の不思議に 出会いと別れに
さらされて 涙を流すよ この世界で

さよならエデン 夢に委ねて すべてを失うくらいなら
さよならエデン 出てゆくよ 夢追いかけて もがくこと選ぶよ
さよならエデン 夢追いかけて もがくこと選ぶよ
この世界で この世界で